ある勉強会で会った方が、「私は人を信用していないんです」と言ってこられたので、なにかしら愛着の問題があるのだろうか、と思いました。
ところがその直後に、「でも私は人が好きなんですよね」と続いたので、ああ、そういうことか!と一人で納得してしまいました。
その方が脳科学の研究をされている方だというのがヒントでした。
「信用していない」のは、人に対してというよりも、脳なのだろうと思ったのです。
脳は、信用ならない。これは科学的にも、そして日常的にも、ほとんど自明です。
睡眠不足やストレスという、ほんの些細な条件の変化で、脳はあっさりとバグを起こします。
大事な約束を忘れたり、今どこを歩いているのかわからなくなったり、地図を見ているのに反対方向へ歩き出したり。
笑ってはいけない場面で笑い、誰かの表情を自分への敵意として勝手に解釈し、自分が臭いを発していると確信し、衝動的に買い物をして後悔したり、ゲームを止められなくなる。
こうして並べてみると、脳というのは、気まぐれなアーティストのようですが、重要なのは、脳のバグはその人の悪意ではないということです。
さらに言えば、脳にも得意、不得意があって当然なのですよね。
胃が弱い人がいれば、アレルギー体質の人もいる。爪が薄くてすぐ割れる人もいれば、肝臓がやたらタフな人もいる。
それと同じように、前頭葉の働きが得意な人もいれば、扁桃体がすぐ反応してしまう人もいる。
ワーキングメモリが弱い人もいれば、逆に感受性が強すぎる人もいる。
つまり、この人はこういう性格だから、ではなく、この人の脳はこういう仕様なのね、と捉えると、ずいぶんと世界がドライに見えてきます。
この人の脳の処理方式は私の脳とは互換性が低い、とか、この人の扁桃体は私より敏感なのね、そりゃあ話が噛み合わないわ、とか、この人の前頭葉と私の前頭葉はたぶん別メーカー製ね、などと考えると、どうやっても分かり合えない人がいるのはとても自然のことに感じられますし、むしろ、それによってストレスを感じるなら距離を置くのはお互いのためです。
誰の脳も、いつどんなタイミングでバグるかはわからない。
だからこそ、「脳は信用できない。しかし、人は好きである」という視点は、非常に合理的で、そしてとても健全だと思いました。
あの人はこういう性格だから、ではなく、脳の仕様が違いすぎるのね、と考えることができたら、人間関係において余計なエネルギーを使わなくなりそうですよね。